ディ・プレッセ

通信「ディ・プレッセ」1号 2002年10月「阿Qゲノム」公演に合わせて発行


ディ・プレッセV 2007december 変幻痂殼城 北京公演報告集

桜井大造、胡冬竹、程凱、崔真碩、丸川哲史、若林千代、佐藤賢、篠原雅武、濱村篤、陳小樺、李薇、段惠民、許雅紅、陳惠善、ばらちづこ、押切珠喜、阿花女、足立治男、瓜啓史、リュウセイオー龍、伊井嗣晴、ながともひろこ、渡辺薫、つくしのりこ、山田博達、森美音子
公演資料他、P81

編集/発行 野戦之月海筆子
頒価 1000円

「早計」と「偽物の日本人」
桜井大造

 わずか2年ほどの中国北京とのつき合いから、テント芝居を北京に立ち上げようというのは早計との誹りをまぬがれない。見識ある北京の学者たちから「もう少し時間をかけるべきだ」と諭されたことも一再ならずである。昨年、北京公演の計画を提示した際、野戦之月メンバーからも台湾の海筆子メンバーからもかんばしい反応は得られなかった。
 とはいえ、北京で出会いつき合い始めた友人たちには北京でテントが立ち上がることへの期待感が強かったし、推察するに、台湾の海筆子メンバーにはためらいや戸惑いと共にある種の決意のようなものが芽生えていったように思われる。日本の野戦之月メンバーは期待感とも決意とも無縁であったと思われるけれど、この「早計」の意義や問題性に処する構えを整えていったのは、私らの表現における新たな展開の必要性を感じていたからだろう。
 計画を提示した当方にも説得力ある論理があったわけではない。北京五輪以前に、三者の協働による独自な関係の磁場を表出しておきたい、という漠然とした意志があっただけだ。ただ、この漠然は一般的な現状分析からではなく、この数年の私ら自身の芝居表現と、中国ー台湾ー日本そして朝鮮半島を巡る具体的なヒトとヒトの関係の動きと展開から生まれた欲望である。いはば「自分らの状況を自分らのものとして作ろう」という、これまた漠然とはしているが、現実的な切迫感に基づくものであった。
 しかして、この「早計」は櫂のない小舟のように、ある潮流に乗って進んでいった。この潮流は、一義的には<ポスト東アジア>の批判的知識人たちが表出させてみせた潮流である。彼らが問いつめ、暴き、再活性化させようとしたもう一つの歴史的な潮流、そのような潮流の存在可能性を前提としていなければ、自前の小舟を出そうとすること自体、思いつかなかっただろう。
 しかし、計画段階から具体的な準備段階にいたれば、櫂のないまま小舟は進まない。まずは、北京の仲間たちと日本・台湾と同じ形態のドーム型テントを作ることになった。夏の暑い盛りの手作業であった。費用は北京の仲間や友人たちからのカンパ金で賄った。朝陽文化館の作業場を借り、材料や道具などはすべて文化館側が調達してくれた。舞台装置作りや道具類、子豚や穀物などの調達においても同様である。なにしろ東京版と台北版の2つの芝居分の道具である。舞台装置は同一とはいえ、道具などは一切カットしない方針であったため、たいへんな量であったのだ。北京の仲間たちにとっては、まったくもって慣れない作業である。自分の仕事時間まで削って、彼らは準備に奔走した。照明機材や音響機材、舞台の小道具など手に入らないものはすべて文化館が無償で貸してくれた。
 そして、準備を整えてなお、最大の難関はテントを建てる場所であった。「中央ビジネス区」として開発が進むエリアの中心部、朝陽文化館横の五輪広場、マクドナルドの店の前である。もちろん、中国国家の土地である。朝陽文化館の「文化活動」としてナントナク黙認されるかどうかは、テントを建て始めてもなお、不透明であった。いつの段階で撤去命令が出るか、最悪の場合は責任者の処罰も予想せざるを得ない状況なのである。文化館館長をはじめスタッフ、北京テント小組のメンバーたちには強度な緊張が走っていた。
 私は、その空気の強ばりを感じながら、私の立てた「早計」は果たしてなんらかの意義があるのかどうかを反芻せざるを得なかった。万一の場合、全責任は私にあるにもかかわらず、私は責任主体とは認められない存在である。最悪、台湾の仲間にまでーー私にどのような身の処し方があるのか? 無事に公演が成立し北京公演が終了した現在も、その反芻は終わらずに続いている。

 2年前の真夏、胡冬竹氏の導きによって、私は初めて北京に出会った。この時点で北京公演の構想があったわけではない。台湾の仲間たちと台北市のテントで「台湾ファウスト」という芝居を終えたばかりでもあり、日本人としての緊張感と同時に台湾の芝居者としての緊張を併せ持った北京訪問だったのである。胡氏の精力的な差配で、連日さまざまな立場の人たちと談話する機会をもらい、その緊張は少しずつ解けていき、北京という街の表皮の内側を旅させてもらっているような気分になっていた。
 その時に訪問したのが、今回の2つの公演場所のうちの一つ「皮村」である。今回の北京制作を担った北京テント小組の陶子氏の案内であった。「皮村」は北京市内にある打工(出稼ぎ労働者)の街で、私らの訪問先は、教育機会を与えられていない打工の子供たちのための小学校を自力で準備している団体だった。彼らはまた「打工青年芸術団」と名乗って歌と踊り中心の公演活動もしており、その活動のビデオを見せてもらいながら歓談したのだった。その映像は天津市の国営工場中庭での公演の様子であったが、若年の女子労働者がぎっしりと座り込み目を瞠りながら見物している様子が強く心に残った。その強い印象も醒めぬわずか2年後に、この村で私らのテントが立ち、労働者や老人たち、子供たちが私らの芝居を目を瞠りながら見物してくれることになるとは、まさしく思いがけないことであった。
 今回の四夜の北京公演での観客の批評で、一番印象に残ったのは、この皮村でのある観客の言葉だ。「東京版」終了のあと、テントの外に出てきたある労働者は、興奮した様子で「おまえたちは偽物の日本人だ!」と言ったのだ。「偽物の日本人?」ーーどうやらその意味は<本物の日本人がこんな芝居をするはずがない。お前らは本当は何人なのだ? 俺がこの芝居に感動したのはお前たちが偽物の日本人だからだ>ということであるらしい。
 8年前、野戦の月が台湾の河原で初めてテント公演をした時、終演直後、観客席から興奮した一人の老人が飛び出してきた。そして「大日本帝国万歳!」と叫んだのだ。これも賞賛であったのだが、この言葉が、その後私が台湾での活動を継続させた要因の一つでもあった。実に私は「大日本帝国万歳!」という本物の肉声を、その時初めて聞いたのである。台湾という異邦においてこそであろうし、その経緯は十分に了解しているつもりであるが、そんな了解を越えて、その本物の肉声はいまも私の中で残響しているのだ。
 北京皮村での「おまえたちは偽物の日本人だ!」という賞賛(賞賛と勝手に誤読しているだけかもしれぬ)の言葉は、現在、私の中で発酵中である。たとえば、私らが<本物の日本人>であるとすれば、その労働者は<偽物の中国人>ということになる。お互いを<偽物>であるとすることで受け入れるという知恵も、歴史のくびきから逃れる作法としてあり得るのかもしれない。いや、いまは<偽物の日本人>という批評だけをうれしく頂戴しておこう。この言葉が「次の中国」への入り口になるのかもしれないが、それももっと先のことだ。
「変幻痂殻城」<台北版>で北京公演を打ち上げたのだが、その翌日の昼からは皮村の子供たちの文化祭が開催されようとしていた。私らの片づけと重なり合いながら、文化祭の準備が進む。もの凄い数の子供たちがどんどん集まってくる。まさしく、<多数>であった。私らはその<多数>に追い出されるようにして、皮村をあとにした。雲ひとつない金秋の陽光の中であった。
 台北を皮切りに、東京、北京へと動いていった今年のテントは、いまだ北京市内にある打工の村に立ったままであるらしい。打工青年芸術団と無認可小学校の児童たちの文化活動の<場>となっているのだ。

ディ・プレッセV 北京報告集より

ディ・プレッセ 2009

目次:目次:ずるい鏡=池内文平/ヤボニア仔戯・棄民サルプリ=桜井大造/ 扉絵=志衣めぐみ/北京グループ、その創造の現在=程凱/「張献忠は失敗したとたん、手当たりしだい人を殺した」=横地剛/一切の価値を再評価する=段惠民/暗黒魯迅の肉体論=王墨林/自由と共同性―「闇の文化史」再論=池田浩士/もっとも重要なこと!―「演劇の十月」からニューヨーク・パンクへ=下平尾直史/えぐりとられたマチー浜昇のカメラが見たもの=平井玄/「在日」コミュニティと音楽~オーストラリアへの旅=趙博/扉絵=栗久里子/花が舞い散るときに=リュウセイオー龍/いつ、どこ?リュウセイオー龍のために=東琢磨/世界根岸劇場 ねぎやんのいる風景/

[2009年9月/B5/85頁/¥1,000] 特集=集団的創造の現在 音と跳舞の探り 著=野戦之月海筆子+独火星通信部 編/発=制作室クラーロ