「阿Qゲノム」序文

桜井大造

 現代科学のイデオロギーは、この不平等社会を維持、固定化するために「ゲノム」という神話を産出した。
 遺伝子が個人を決定し、個人が社会を決定するという生物学的決定論のイデオロギーは、「ゲノムという神話」をすべての「物語」の上に秘密めかして上書きする。秘密めかすのが、肝要なようだ。市民社会の表面に炙り出しのように現れてきた暗号を、科学者=<知(血)の体系?>が読解することで、初めて「神話」は共有するべき「神話」として成立するからだ。
 このような「神話」が普及するのは、それが市民主義的な存在的不安を解消させるのに役立つからだろう。「人間はどこからきたのか?」「生き物とは何か?」「人間と社会とはどんな関係にあるのか?」「どうして人間社会は不平等か?」――市民社会の内部に、多少の社会的異議があろうとも、「多少の社会的異議」の残り大部分が、生物学的決定という変更不可能な因果関係に還元できるとすれば、とても楽だからだ。
 しかし、不安解消の対価として手に入るのは、存在に対する諦念と冷笑だけだ。諦念は、存在に対しできる限り社会的摩擦を避けるように命じるし、冷笑は存在をどこまでも切り縮めるように指示する。こうして、どこまでもやせ細った<個>は、「1」と名づけられた独房に自ら収容されようとするだろう。その独房の中では、冷笑や諦念こそが<他者>からの収奪や殺戮を再生産するのだ、ということが忘却できるのだ。
 もちろん、「ゲノムという神話」は<科学的>にも少なからず崩されている。当初からその欠落を隠し、したがってどこかしら胡散臭さをともなっていたのだった。だが、すでに社会システムがこの「神話」を、<外部>に対する搾取・排除・必滅の合理化として利用し、<独房の個>に対しては脅迫と恭順として採用しているのが現実である。たとえば、「人口爆発」や「イノチ」をベースにしてアグリビジネスや医療産業が領有している「神話」には、恭順した<個>たちの絶大な延命幻想が動員されているし、社会の全ての領域における<優位性>という「神話」と溶け合って、この社会の階層性に太鼓判を押し続けている。 

 では、この芝居のタイトルの「阿Qゲノム」とは何か。「阿Q」と「ゲノム」という単語の接合は何を意味するのか。「阿Q(の)ゲノム」か? 「阿Q(と)ゲノム」か?「阿Q(VS)ゲノム」か? 「阿Qゲノム」というタイトルでは、「阿Q」と「ゲノム」という単語が何らかの接続関係を持つのか、あるいは無関係にただ転がっているだけなのか、そこがわからない。
 当初、この芝居のタイトルは「阿Q連続体仮説・フェイクゲノム」であった。とりあえず「阿Q」と名づける<表現されえない無限の実数的民衆存在>と、個体の中に眠ったり休んだりしているとされる<ニセ遺伝子の無限大的な連鎖可能性>に筆者がめくるめき圧倒されたところに由来している。それを「阿Qゲノム」につづめたのだった。
 ある友人の指摘通り、この段階で、筆者は「ゲノムという神話」の内辺をさまよっていただろう。「ゲノム」にまつわる科学的言説の不気味さを感じながらも、おそらくそれをこちら側の物語の中に面白おかしく反転・回収できると漠然と考えていたのだった。だが、ゲノムは言説の不気味さではない。人にまつわる実体としてのそれであった。
 最初の段階で、そのことが十分捉えられていなかったことは確かである。当然ながら、芝居に反転・回収しようとしたゲノムをめぐる物語など、そのまま「ゲノムの神話」に回収されていったに違いない。
 「阿Q」については、この芝居が「民衆」という不可知な存在にかかわる物語を求める上で、当初から<外部的存在>の記号として考えていた。そして「ゲノム」とは、今にいたってだが、<内部存在の物語>に上書きされる<神話>であると考えられている。
 この芝居は私(ら)の「存在」を問うものである。内部存在的には<ゲノム状況>とでもいうべき領域に私(ら)はあること、そこから「存在のどこかしらか」を「阿Q」という<外部>に越境・放逸させようとすること、これがこの芝居の行き方である。だから、その動線を可能にする方法論が必要とされる。<これは芝居だから>といった類の共通了解性に留まるかぎりは、<芝居という神話>を自身の内部的存在の物語に上書きするだけだからだ。
 だが、それはたやすいことではいかない。その方法そのものがこれから6ヶ月の私(ら)の道程の中で試行錯誤されるだろう、としか言えない。ならば、タイトルは「脱ゲノム阿Q」とでもすべきであったろうか。でもやはりこれもおかしい。私(ら)は、外部に一方的に放逸できるわけではない。内部に居ると見せておいて外部に、外部に放逸したと見せて内部に帰還していなくてはならない。もちろん帰順や自爆という方法を使わずに。
 いずれにしろ、この芝居を書くにあたっては、先述した筆者の不足と友人からの忠告が、起点を再考させてくれた。

 「阿Q」については、もう少しだけ書いておきたい。すでに「覚書」やチラシの文章においてふれてきたが、物言いは常に不十分で、その性格上、言説にはいたらない。重複を避け得ずして言えば、この芝居において私(ら)は阿Qを追跡しようとしているわけではないだろう。あるいは、阿Qをジョーカーとして使おうとしているのでもない。
 私(ら)が、芝居という場に「存在」しようとすれば、<独房の個>にいるわけにはいかない。芝居はチャットルームではないからだ。そしてこれがまた、たやすいことではいかない。「1」を破壊することは自らの抱える世界をも同時に破壊することだからだ。大げさでも何でもない。世界の方は微動だにしないだろうが、「1」を脱したものにとって、世界はすでに壊れているのである。
「0から2」を流浪する阿Qにとっては、すでにそれ以上に世界は不明である。阿Qは世界の対象の外におり、時に死者数とか人口とかいう統計学に算入されるだけだ。だから、阿Qにとって世界なんてものは、もともと、爆撃された跡のビルのようなものだ。ただの破片なのだ。
 私(ら)は、おずおずと「0から2」の間を移動するだろう。そして、おそらく阿Qとすれ違う。あるいは、ピタッと重なり合って、その瞬時に起こる<出来事>を共有するかもしれない。
 否、逆である。この芝居は、その重なり合う時間のために設定され、<出来事>を起こすために書かれるのだから。そしてこれがまた、たやすいことではいかないのだ。
(野戦の月&海筆子)