機械としての身体、集いとしての劇場  ―〈革命〉に演劇は何をもたらしたか?

池田浩士

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 1923年1月31日、のちに演出家・舞台装置家として前衛的な演劇運動の歴史に大きな足跡を残すことになる村山知義が、ドイツから東京の自宅に帰った。関東大震災に先立つこと7ヵ月である。横浜を出航して日本を離れたのは、1年前の1922年1月4日だった。しかし船旅とベルリンまでの列車の旅に片道ちょうど1ヵ月半ずつを要したので、かれのドイツ滞在は正味わずか9ヵ月にすぎなかったわけだ。けれども、このわずかな期間が、村山知義というひとりの表現者にとってばかりでなく、日本の前衛的な表現運動の歴史にとっても、決定的な意味を持つことになったのである。それは、1922年のベルリンが体現していた危機のゆえであり、その危機を21歳の村山知義がほとんど無意識のうちに、しかしきわめて敏感に自己の感性に深く刻みつけて帰ったからにほかならない。
 ベルリンが体現していた危機とは、もちろんひとつには、目に見える直接的・政治的な危機である。1918年11月9日の敗戦と帝国崩壊ののち、ドイツでは、旧体制護持派および反保守派の右翼愛国主義・民族主義諸潮流と、ヴァイマル議会制民主主義派、それに共産党およびアナルコ・サンジカリズムのいわゆる左翼過激派が、三つ巴となって政治的・社会的ヘゲモニーを争っていた。この状況は、1922年に至ってもなお続いていた。未曾有のインフレと失業、生活物資の不足など、経済的な困窮がそれに輪をかけていた。けれども、村山知義が身をもって体験した危機は、それだけではなかった。危機は、文化の領域でも先鋭化していたのである。
 20世紀初頭から第1次世界大戦前後にかけての時期に、さまざまな芸術分野で世界的同時性をもって新しい表現、前衛的な表現が生まれたことは、よく知られている。イタリアの未来派、それに触発されたロシアの未来派と、フォルマリズム、構成主義など、「ロシア・アヴァンギャルド」の名で総称される多様な試み、ドイツの表現主義、ダダイズム、そしてフランスを中心とするキュビスム(立体派)、さらにはシュールレアリスム、等々がそれである。これらに共通する基本的な特質をきわめて簡略に言い表わすとすれば、写実的な描写をむねとして現実を再現しようとした18、19世紀の芸術にたいして、20世紀のアヴァンギャルドは、抽象やモンタージュを基本原理とする表現によって現実に立ち向かおうとしたのだった。それらは、たまたまロシア、ハンガリー、ドイツなどの政治革命の同時代人だったのではなく、これらの革命が目指したものを、文化表現の領域で実現しようとしていたのだった。一部の特権階級だけが政治と社会との主人公である社会を打倒して、民衆自身が政治と社会の主体となることを、政治・社会革命が目指したとすれば、文化表現のアヴァンギャルドたちは、民衆が文化表現の単なる受け手にとどまるのでなく、民衆自身が表現の主体となるための道を開くような表現を、模索しようとしたのである。だからこそまた、少なからぬ文化表現者たちが、政治的・社会的な革命との共闘を実践しようとした。そして他方、政治革命の側も、文化の革命をもはや等閑視することはできず、革命的な文化運動を自己の課題として実践せざるをえなかったのだ。
 帝政を打倒し帝国を敗戦に追い込んだドイツの革命は、ロシアのボリシェヴィキ革命とともに、文化革命の試みが政治革命と並行してなされようとした点を大きな特色としている。表現主義者やダダイストたちの多くが、各地に結成されたさまざまな評議会(レーテ、すなわちソヴィエト)に参加して革命の一翼を担おうとした。しかもかれらは、ただ単にそれによって政治や社会の構造を変えようとしたばかりでなく、もっぱら商品としてしか生きない作品を生産する従来の自己の営みに終止符を打ち、この営みの基盤である従来の芸術価値の基準を根本からくつがえし、表現の送り手である自分ともっぱら受け手でしかない読者・観客との一方通行的な関係そのものを変革することを、試みようとしたのだった。ロシア革命と、ロシアの革命に触発されたヨーロッパ各地の変革運動のなかでなされた同時的なこの文化革命、芸術と文化のほとんどあらゆる領域にわたるこの前衛的な試みが、ほぼ出そろったのが、1922年であり、しかも、ロシアでの革命が転換期を迎え、東欧での革命が失敗に帰した結果として、それらの地域で活動してきた表現者たちがひとつの活動拠点をそこに見出していたのが、1922年のベルリンだったのである。それゆえ、大戦をはさんだほぼ10年間の前衛的文化表現の到達点と、それにもまして問題点が、1922年のベルリンには集中的に渦巻いていたのだった。村山知義は、その1922年のベルリンで生き、そうした到達点と問題点を、ほとんどすべてといっていいほど濃密に吸収して帰ったのである。

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 20世紀の前衛的な文化表現を見るとき、それらが生まれ、生まれた現場で活動していた時期にもまして、それらがたどった後史に注目することを、避けるわけにいかない。
 このことは、もちろん、政治・社会革命と文化革命とが不可分のものとして試みられたロシア、ドイツ(および旧オーストリア・ハンガリー帝国)、イタリアという3つの地域で、やがてスターリニズムとファシズム、ナチズムが現実を制覇することになるという事実と、関連している。社会主義・共産主義による革命のなかで表現そのものを変革しようとしたアヴァンギャルドたちは、政治との新たな関係を強いられざるをえなかった。だが、この新たな関係が、1910年代後半から20年代初頭の革命のなかでなされた試みと成果を放棄し変歪することだけだったとすれば、問題はまだ単純だっただろう。すでに1922年10月に政権を掌握していたイタリアのファシズムが、もっともラディカルな未来派の表現者たちと緊密な共闘関係にあったことは、周知の事実である。しかも、これはイタリアだけのことではなかったのだ。文化表現の前衛たちがスターリニズムやナチズム、ファシズムとの関係のなかで転向を強いられねばならなかったというのは、じつは一面の事実にすぎない。大粛清と強制収容所と国外亡命は、この一面を如実に物語っている。しかし、おそらく量的にはこれらの「犠牲者」をはるかに上回る表現者たちが、こうした支配体制の構築と維持に貢献したのだった。しかも、みずからが切り開いた前衛的な表現によって、それをしたのだった。スターリン体制による粛清の歴然たる一例としてしばしば言及されるソ連の前衛的演劇活動家、F.M.メイエルホリドの場合でさえも、そうだったのである。
 演劇におけるアヴァンギャルドの試みが論じられるとき、メイエルホリドが取り上げられることが多いのは、理由のないことではない。メイエルホリドは、20世紀の前衛芸術が初めて手にすることができた表現上の可能性を極限まで駆使した新しい表現を、ひたすら試みた芸術家のひとりだった。しかもかれは、これらの新しい可能性を、人間にとって外的な機械技術的な要因として利用しただけでなく、いわば人間のなかに内在化された生きた身体的可能性として、舞台で実現しようとしたのだった。
 演劇にとどまらず、20世紀の前衛的な文化諸表現が切り開いた新しい地平、あるいはむしろ新しい地平を切り開くための新しい課題設定は、きわめて簡略化して言うなら、つぎのように要約されるだろう――
 1.新しい機械的・技術的可能性を駆使して表現の可能性を拡大・深化すること。
    舞台への映画の取り入れ、音響効果・照明、電力を使った舞台装置、等々。もちろんこれは、放送、映画、写真、印刷技術などに関しては自明のことである。
 2.身体の重視、身体的可能性の追求。
    これは上記と相反するように見えるが、たとえばイタリア未来派のマリネッティが提唱した「触覚主義」や、同じくかれの「驚異の劇場」の構想には、いわゆる精神や内面を重視した旧芸術に抗して、表現の基底としても受容者の側の能力としても人間の身体的可能性に着目する基本姿勢が表われている。ベーラ・バラージの映画論『視覚的人間』にも、この姿勢は顕著である。
 3.受け手の参加。
    表現の送り手と受け手のあいだの一方通行的な関係を解体し、能動的・主体的な観衆・読者を触発することは、社会・政治革命との共闘を志向した前衛的表現者たちの基本的モティーフだった。幕や舞台と客席との区分のない劇場、観客を巻き込んでいく芝居、ブレヒトによって定式化された「異化効果」(それはロシア・アヴァンギャルドのV.シクロフスキーの着想だった)、等々。これは、革命を志向する前衛表現にかぎらず、いっけん非政治的な大衆文化の領域においても、20世紀の最大のモティーフのひとつである。たとえば、読者の主体的参加を不可欠の要因とする探偵小説など。
 「ビオメハニカ」、すなわちバイオ・メカニズムの理論として知られるメイエルホリドの演劇構想は、これら3つの基本理念を実現するもっとも先端的な試みのひとつだった。「工場とか比較的大きな機械室とかのなかで演技をしたいと思っており、それゆえ舞台装置のなかで、まさしく鉄骨構造の工場の内部を模倣する試みをおこなっている」と自分たちの舞台の構想を語ったメイエルホリドは、「自動車や路面電車や飛行機が、観客席のなかで発着しなければならない」とも述べた。劇場は、工場や機械室によって代表される先端技術の同時代人でなければならないのだ。そして、そうした先端技術によって生活を急速に変えつつある民衆の感性と、劇場は切り結ばねばならないのだ。1920年代のメイエルホリドの舞台を実見した日本のロシア文学者、米川正夫は、その舞台が、機械化されつつある現代ロシアの農村を描くために、新式農具や自動車を登場させ、メリーゴーラウンドや空中ブランコなどの機械仕掛けを駆使し、映画(キネマ)が発揮する効果を意図的に応用していたことを証言している(「私のメイエルホリド観」、1928年5月刊『メイエルホリド研究』所収)。けれども、機械化は、舞台装置や作品のテーマのなかだけにあったのではなかった。演技する俳優もまた、機械化を体現していたのだった。すでに1910年代の中頃からかれが劇場のひとつのあるべき形として実践していた「見世物小屋(バラガン)」の構想そのものが、サーカスや軽業などがそうであるように、人間の身体の機能を極限まで追求し発揮することによってのみ、実現されうるものだったのである。このことについて、メイエルホリドはこうこう述べている、俳優は、ちょうど映画の場合とまったく同じように、迅速で集中度の高い演技をしなければならない。だから、われわれはまず第一に身体の鍛錬、スポーツ、ボクシング、ローン・テニス、ダンス、アクロバットをやっている。わたし自身、わたしがビオメハニカと名づけ、体操による健康法に基礎をおくひとつのシステムをつくりあげた。」
 ビオメハニカとは、人間の身体を合理的に機能させてその能力を最大限に発揮させることを演劇表現の根底に据え、それを実現するためにメイエルホリドが創出したシステムである。熟練工と呼ばれる労働者や、サーカスやアクロバットの芸人たちの身体の動きを綿密に観察、測定し、もっとも効率的な所作を俳優に修得させようとするものとして、ビオメハニカは一般には知られている。だが、サーカスやアクロバットがただちにイメージさせるとおり、ビオメハニカはただ単に人間の身体を機械の性能に近づけることだけを目的とし理念とするものではなかった。「見世物小屋」のヴィジョンが物語っているように、近代演劇がその特権性・差別性の代価として失ってきた身体の意味を、ビオメハニカは、芸術とは見なされない民衆芸能、いずれの社会においても主として被差別者たちによって担われてきた「下賤」な劇場空間のなかに再発見し、革命の文化にふさわしい新たな前衛的表現の可能性を、新しい機械の動きに匹敵するような身体の機能の開発に見出そうとしたのである。しかも、その開発は、個々の俳優の可能性とのみ関わるものではなかった。「われわれは劇場の建物から外へ出て行こうと思っている」と、1920年代の末にメイエルホリドは語っている。「かんじんなことは、俳優たちが専門家として一面的に養成された役者ではなく、労働時間が終わったのちに芝居を演じる労働者でなければならない、ということだ。」――そしてさらにこう述べている、「われわれがひとえに欲していることは、観衆が無気力に静かに坐っている古い劇場から脱却することだ。観衆もともに動くようにならなければならない。観衆が絶えず動きつづけ、たとえばゴンドラのようなものを使って一階の平土間から一番上の天井桟敷まで運ばれるような、そういう未来の劇場を、われわれの新しい建築家はすでに設計している。生活と演劇とが、たがいに混ざりあわねばならない。」
 資本主義の工場やオフィスで機械と化した人間は、こうして、身体の機能を真に解き放つことによって人間の身体を奪回する。だが、そればかりではない。ビオメハニカとは、この語がちょくせつ意味するような個々の人間の身体のメカニズムだけに関わる理念ではなかったのである。それは、観衆を静止した鑑賞者のままにしておくのではなく、動く共演者にしようとする。そしてその反面で、俳優は専門家ではなく、労働が終わったあとで芝居を演じる労働者なのである。表現の一方通行性は、こうして止揚されようとする。そして何よりも、これによって、演劇は特権的なひとつの「芸術」ではなく、生活の一部となるのである。

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 村山知義は、1930年5月に刊行された著書、『日本プロレタリア演劇論』のなかで、最近のソ連の演劇がおちいっているとされる形式主義(フォルマリズム)について触れ、メイエルホリドもまたこれに「多くわざわいされた」が、「しかもその範囲に於ても彼の成就したことは演劇芸術の表現手段についての本質的な試みであり、そのためにその内容についての比較的な不注意や動揺にも拘らず彼の仕事は高く評価されている」と書いた。ソ連における形式主義批判という名の前衛的表現にたいする批判はすでに始まっていたが、これが大粛清の一部として全面的に展開され、メイエルホリド自身が1939年7月に逮捕されることになろうとは、もちろん村山知義が予測しうるはずもなかった。それどころか、1930年の自著にソ連での形式主義批判について書くことになるなどと、ベルリンで同時代のアヴァンギャルドの息吹きにふれていた1922年の村山知義は、想像できただろうか。その1922年の4月、メイエルホリドは『堂々たるコキュ』で初めてビオメハニカを本格的に実践して、大きな議論を呼んでいた。その議論は、まだ、かれの生命を脅かすものではなかったのである。
 だが、村山知義が呼吸していた1922年のベルリンの空気は、じつは、生命を脅かすものの予兆をすでに孕みはじめていたのである。その地を訪れていたイタリアの未来派たちや、ショルシュ・グロスをはじめとするベルリン・ダダのメンバーたち(かれらの多くは共産党員だった)、そしてもちろん少なからぬ表現主義者たちとじかに知り合った村山知義が、ドイツを去って日本に帰着したのとほとんど時を同じくして、決定的な転機がドイツを襲った。
 1923年1月11日、ヴェルサイユ条約にもとづく賠償の履行をドイツが怠っているという口実のもとに、フランスとベルギーは、ドイツ最大の石炭産出地であり大工業地帯であるルール地方を、軍隊によって占領した。ヴァイマル共和派の政府が無策のままに事実上これを座視するなかで、3月中旬、ルールの石炭をフランスが自国に運ぶ鉄道線路が爆破された。右翼民族派の青年グループが逮捕され、フランス軍事法廷は、主犯と目されたレーオ・シュラーゲターという28歳の青年に死刑を言い渡した。国際的な非難と助命キャンペーンにもかかわらず、フランスはこの青年を銃殺刑に処した。刑は5月26日に執行された。――これが、転機となった。シュラーゲターは国民的英雄となり、ナショナリズムが、インターナショナリズムを最終的に圧倒した。なおも燃えつづけていた共産主義革命の残り火はここに絶えた。シュラーゲター事件から利得を引き出した右翼ナショナリズム諸派のうちでも、最大限にこの事件を利用しつくしたのは、国民社会主義ドイツ労働者党、つまりナチ党だった。ナチは、いちはやく、シュラーゲターがナチ党員だったと発表した。事実は、同盟関係にあった別の群小政党のメンバーだったにすぎなかったが、この最大の国民的英雄の慰霊・追悼キャンペーンにおいて主導的役割を演じることで、ナチ党は右翼民族派のなかでの地歩を着実に固めていくことになる。そしてそもそも、同年11月9日、敗戦5周年を期して――というよりも、ボリシェヴィキとユダヤ人による革命のゆえに帝国が崩壊したあの「11月の裏切り」と、その結果としてのヴェルサイユ体制に終止符を打つために――ナチ党がミュンヒェンでクーデターを起こしたのは、シュラーゲターの事件によって歴史の流れが変わったことを、ヒトラーたちが見て取ったからかもしれないのである。
 それから10年たらずののち、1933年1月30日についに政権の座に就いたヒトラーは、その年の4月20日、44歳の誕生日を迎えた。それを祝して、ひとつの演劇作品がこの日に初演された。ハンス・ヨースト作の『シュラーゲター』がそれである。
 そのとき満42歳だったヨーストは、早くからのナチ党員で、ナチ政権下の「第三帝国」では文化行政の中核的役割を担い、とりわけ演劇分野における最高責任者の地位に就くことになる。戯曲『シュラーゲター』は、まさに、テーマの点でも作者の点でも、総統の誕生日に捧げられるにふさわしい作品だった。注目すべき点は、しかし、それだけではなかったのである。この作品が、とりわけその幕切れで示したものこそは、20世紀の前衛的表現が追求しつづけたモティーフにほかならなかったのだ。――観客席の正面に並んだ処刑隊の銃弾は、客席に背を向けたシュラーゲターを貫いて、そのまま観客たちを撃ったのである。処刑されたのは観衆なのだ。観衆は見物客ではなく、当事者であり、ドイツの運命に責任を負う主体なのだ。
 メイエルホリドが、そしてかれの共闘者であったエイゼンシュテインやトレチャコフが、早くから追求していた表現理念が、ここには息づいている。ハンス・ヨーストは、この原理をドイツにおいて追求した表現主義者たちの一員として出発した劇作家だったのである。しかも、ヨーストがナチズムの陣営で実践したこの表現理念は、1933年のドイツにおいて、孤立した単独者ではなかったのだ。
 それどころかむしろ、20世紀の先鋭的な表現に通底する課題は、ナチズムの運動のなかでひとつの実現を見たのである。新しい機械技術を駆使し、人間の身体を重視し、表現するものと鑑賞し受容するものとの一方交通的な関係を解体して民衆自身が表現の主体となる――これを実現したのは、ナチズムであり、部分的には、民衆の唱和と主体性によって大粛清を遂行したスターリズムのソ連だった。
 まだその全貌が究明されていないひとつの演劇形式、「ティングシュピール」と呼ばれる形式は、ナチズムが実現した理念を端的に物語っている。それは、野外で演じられる群衆演劇である。だが、「ティングシュピールと野外劇とは、二つの別のものである」と、1934年6月20日号のナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオーバハター』(民族の監視兵)に発表された「ティングシュピール・テーゼ」は述べている。「空の下で演じられるロマンティックな騎士物語〔時代劇と読め!――引用者〕は、あくまでも演劇であって、ティングシュピールになることはない。」――ティングシュピールは、20世紀の表現に独自の課題を実践した劇的形式、演劇を超える形式だったのだ。
 演技(シュピール)は、シュプレヒコールと分列行進を基軸にして展開される。分列行進の諸グループは、旗や標識によって、たとえば共産主義者、資本家、保守派、ユダヤ人、そして国民社会主義者、等々であることを示す。そして、それぞれのグループがシュプレヒコールの応酬によって各自の主張を戦わせ、次第に舞台は熱気を帯びていく。舞台、それは、当初においては街頭であり、広場であり、工場の中庭である。群衆がそれをぐるりと取り巻いて見物する。演技者たちは、これまた当初においてはSA(ナチ党の突撃隊)隊員であり、党員たちである。その場が白熱の度を加えると、観衆のなかからシュプレヒコールに加わるものが出始め、やがて飛び入りで分列行進に加わるものが出てくる。こうして、初めは数十人だった演技者は、数百人にふくれあがる。
 ナチ政権第1年の1933年の年末までに、全国に400の「ティングプラッツ」、すなわち「ティングの広場」を建設することが政府の方針として決定された。「ティングプラッツ」はまた「ティングシュテッテ」、つまり「ティングの場」とも称された。建設予定地に指定されたのは、いずれも、古代ゲルマンの共同体の遺蹟とされる場所だった。森や小山の頂きなどで、伝えられるところでは、そこで部族共同体の会議が開かれたのだった。ティング=Thingとは、現代の英語にある語義のとおり(ドイツ語のDingにあたる)、「こと」を意味する。日本語で「一朝事あらば」とか「それは大事(おおごと)だ」というときの「こと」である。つまり、部族にとって大事なことを討議し決定するための集い、ときによっては裁きのための集いがティングであり、それを議する場がティングプラッツもしくはティングシュテッテなのである。人口15万人にひとつのティングの場を造るという当初の計画は、1934年中にまず25ヵ所が着工するというかたちで実行に移された。それらはいずれも、中央にある演技スペースをぐるりと観客席が囲む形態をとっており、もちろん演技者と観衆とを隔離する幕や大きな段差はなかった。記録によれば、これらのティングの場での上演は、多いときには2000人を越える演技者とそれの10倍に達する観衆によって行なわれたのである。ほとんどがドイツの近過去の歴史、ナチズムの「闘争時代」に題材をとったティングシュピールに参加することで、民衆は、ナチズム運動を自分自身の実践的課題として血肉化し、この運動とともに歩むことで主体的に自己の歩むべき道を決定したのだった。
 「ティングシュピール・テーゼ」は、つぎのように述べている――

3.「ティング劇場」という言葉はない。ティングシュピールは劇場芸術から脱却して、裁きの日が催されることになるであろう場へと導いていく。劇場芸術作品から脱却して裁きの場へと、その演技は導いていく。それが重要なことになりつつある、いま。
7.演技を担うのは民衆であって、十人ばかりの有名人やだれもが知っているスターたちではない。どんな名前も無名になるべきだ! 栄誉に輝くのはひとり民衆だけであるべきだ!

 「ティングシュピール・テーゼ」の執筆者であるリヒャルト・オイリンガーも、かれと並んでもっともよく知られたティングシュピールの台本作者であるクルト・ハイニッケも、じつは表現主義者として出発した作家だった。かれらは、かつて世界的な同時性において自分たちが向き合ったテーマを、「第三帝国」のなかで最終的に実現したのである。民衆は、まさに、「労働時間が終わったのちに芝居を演じる労働者」となったのだ。そして、「われわれは劇場の建物から外へ出て行こうと思っている」というメイエルホリドの劇場理念は、実現されたのだ。それどころか、観衆は演技者になったばかりでなく、公募された台本の作者にもなった。一度の募集に数千篇のティングシュピール台本が応募した。まさしく、「生活と演劇が、たがいに混ざりあう」現実がやってきたのである。
 転機は、しかし、早くも1934年のうちに訪れた。まず「ティングシュピール」という名称が認可制となり、ティングの場の建設が中止された。民衆の集いの場が、ナチズムにとっての裁きの場にならない保証は、なかったのである。1936年のベルリン・オリンピックのための施設の一環として建設された「ディートリヒ・エッカルト舞台」が、最後のティング・プラッツだった。
 けれども、では、ナチ権力によって禁圧されたことをもって、ティングシュピールを肯定し称揚することがはたしてできるのか?ーそしてそもそも、文化表現の特権性と商品性を解体することを目指し、もっぱら消費者としてのみ文化と関わってきた民衆が表現の主体として生きるような現実を切り開こうとした前衛表現者たちの、初期における苦闘と、後史におけるファシズムやスターリニズムとの関係を、かれらの表現実践そのものに即して、どのように考えるべきなのか?
 決定的に新しい表現を模索したアヴァンギャルドたちがファシズムやスターリニズムに併合されていった後史を、「転向」という概念でとらえることには、問題が多い。日本におけるプロレタリア文化運動を、政治的・イデオロギー的な前衛としてばかりでなく文化表現の前衛として担った村山知義は、1934年4月、日本で最初の自覚的な転向文学作品とされる中編小説「白夜」を発表して、天皇制ファシズムへの屈伏を公表した。大東亜戦争下の時期のかれは、俳優・千田是也の兄の伊藤熹朔らとともに、「移動舞台」の運動にたずさわり、ここでも民衆の主体性を触発する作劇法を民衆のただなかで追求しつづけたのである。
 だが、その民衆とは、だれだったのだろうか?
 ティングの広場の集いで主体的な表現者となった民衆は、あの機械技術を駆使した演出に陶酔しながらナチ党大会に参加した主体的な民衆だったのである。ナチズムが理想とした主体性は、それだったのである。そして、じつは、メイエルホリドが主体的な表現者として期待した民衆、当初かれがサーカスやアクロバットの芸人たちのなかに見出した表現者としての民衆は、ボリシェヴィキ革命の一端を担いながらかれがビオメハニカを実践に移したときにはすでに、革命の主体として認知された民衆、官許のあるべき人間としての労働者や農民だった。戦後に連作『忍びの者』で忍者ものブームの先駆者となる村山知義でさえ、プロレタリア演劇運動時代に、そしてもちろん「移動舞台」の時代にも、はたして同時期のメイエルホリドが見たものとは別の民衆を見ていただろうか。革命のなかでさえ人間として振り返られることのない人間、「国民社会主義」であるナチズムにとっての非国民、天皇の赤子(せきし)ではない社会構成員、その他すべての埒外に置かれた人間たちは、けっしてティングの場の集いに登場することはなかった。この人間たちは、理想化された工場労働者たちが身体をますます機械に近づけていく訓練をビオメハニカに即して自己に課しているとき、もっぱら機械として、機械以下の機械として、それゆえにまた本質的には機械を批判し解体する可能性を内包しながら、しかしその可能性を主体的な表現によって実現する手がかりさえ持たぬまま、生命をすり減らしていたのである。20世紀の前衛表現は、ついにかれらと出逢うことがなかったのである。
 そしてそのことが、表現の前衛たちがスターリニズムやナチズムに主体的な表現の場を見出すことになった最大の根拠なのだ。

(2002年10)(京都大学教員)