photo by 高木 淳
「野戦の月」とは詩人・米山将治氏の同タイトルの詩からもらった名前である。
この詩は、私らの友人であった故山岡強一さんを追悼するものである。
山岡さんは、1986年1月13日、新宿大久保の路上にて、ヤクザ金町一家の凶弾
にたおれた。
野戦の月 米山将治
こころ荒れて
無念の夜が更けていく
北海道に正月あけの粉雪が隆りつのる日
一九八六年一月一三日 新宿大久保一丁目の路上で
ぼくの青春の友・山岡強一は射たれて死んだ
いまこの国の最もまともな労働運動であるとおもう
山谷争議団のオルガナイザーのひとり
いかなる壊滅にもくみしないしたたかな知謀と
電光のとおい一閃に突っ立つ鋭い悲愁を抱いて
この世界のいちばんはずれの東京の
ポン引きと公安と極道のガンモドキのうろつく冬の
ドヤの片隅の洗い晒しの毛布にくるまって
いつも身体ぐるみの思想のゆくえを考えていた男
且て山谷・釜ケ崎の日雇労務者とともに生きる組織をつくり
暴力手配師とどう闘うかを教えた火の鳥・船本洲治の
しずかな影でありかけがえのない同志であった男
〈政治は人々を崇高にし、醜悪にもする〉*1
それは時代を衝くなんという見事な言い方なのだ
皇太子沖縄行を批判して焼身自決をとげた盟友をかたみに
船本洲治論文集はそういう題で編まれていた
あれからの十年に春はおそく
どこにでも立ちはだかる国家の凄惨な構造に仕切られて
どす黒いキャピタリズムの迷宮となった首都の舖道で
〈やられたらやり返せ)実録・山谷現闘史一冊を手枕に
かれが見据えた高く架空な月明かり
ぼくの書く〃野戦〃という一語はかれのためにある
コルトレーンが死にゲバラが死んだのち夜の橋のむこうにわかれ
あの完黙の季節にふたたびことばなくわかれたままの
涼しい沁み透る徴笑は凶弾に仆れた
おゝ
明るすぎるTVの画面に入り替る商社のCMのすきまを
民衆の敵・日本国粋会金町一家の殺人者の
卑しい呼吸がそこをすり抜けていく
逆回転するフィルムのなかに火となれ日本泪橋
燃える寒梅をかざしてすべての死者たちはまた街頭に突っ立て
左胸がらこぼれ落ちてまだ乾かぬ血溜りにペンをひたして
こころ荒れて
いまぼくが書く無念の詩片
ことばだけのどんなまっとうな世界があるか
こんなとき言語がなぜ具体性を欠いて宇宙ヘトンコするのだ
不当にして野戦の月は砕け天心は異化に昏む
はだしに沁みる無神の雪〈生き急ぎ また感じせく〉*2
いまは時代を亘るもっとも清洌な声によってきみを悼み
どんな銃口もひとつの思念を消すことができない
この国にひとりでも失業者や日雇のいる光景のある限り
抑圧と収奪におおわれた貧しい氷球の国がある限り
山岡強一を忘れてはならない
かれが敵としたものを忘れてはならない反歌
もゆる火を かなしき敵と おもい居つ きみ発つ日あれ 石躍村*1 船本洲治
*2 ヴァゼムスキー公「初雪」
<山岡強一略歴>
1940年7月15日、北海道雨竜郡沼田町の昭和炭坑労働者の子として生まれ育つ。45年8月15日、5歳の時、炭坑で強制連行された朝鮮人「労務者」の決起に出会う。
68年上京、11月山谷へ。東京日雇労働者組合(東日労)に加入。72年に、釜ケ崎での船本洲治らによる暴力手配師追放釜ケ崎共闘会議(釜共闘)の戦いと連動して、山谷悪質業者追放現場闘争委員会(現闘委)を結成。その中心メンバーとして、寄せ場の暴力支配を覆す戦いを推進する。
75年6月25日、同志・船本洲治、沖縄嘉手納基地第二ゲート前で「皇太子の訪沖阻止!」の言葉を残し焼身決起。
79年6月9日、東日労事大からの同志・磯江洋一、単身決起~山谷マンモス交番の警官刺殺。~「6・9闘争の会」を結成。
82年6月27日、全国日雇労働組合協議会(日雇全協)結成。
83年11月3日以降、対皇誠会・西戸・互助組合・金町戦の最先頭で戦う。84年12月22日の西戸組組員による佐藤満夫監督虐殺以後、その遺志を継いで映画『山谷 やられたらやりかえせ』を完成。(佐藤満夫は、83年~84年当時山谷越冬闘争を支援する有志の会のメンバーとして山谷に入り、ドキュメンタリー映画撮影中に刺殺された。山岡はそのフィルムを受け継ぎその後完成させた。)
1986年1月13日、午前6時5分、新宿区大久保一丁目路上で天皇主義右翼・日本国粋会金町一家金竜組組員のピストルの凶弾でたおれる。享年45歳。