阿Qクロニクル-罠と虜

作/演出 桜井大造
2003年10月・11月 東京東小金井

 台北のダウンタウンにある「龍山寺」という道教寺院の境内では、日がな一日老人たちが群れをなしてたたずんで いる。そのほとんどが蒋介石国民党の元兵士だ。何をするでなく、ただ一様に押し黙って立っている。参拝客で賑わう境内を眺める鈍重なまなざしは確信的とも いえる強度を感じさせるが、おそらく何を見つめているわけでもない。彼らは「何か」を待っている。そしてその「何か」は決してやってこないことも知ってい る--そう思われる。雨の日は、寺院の前にある「マクドナルド」の2階に、この<しじまの群れ>は亡命する。
 例えば、ある老人のクロニクルはこうだ。
 なかば強制的に国民党軍に召集され抗日戦争を耐え忍んでも、なお中国大陸に「戦後」はやってこない。国共内戦のさなか、共産党軍に捕らえられ<虜>とな る。そしてほぼ強制的に中国人民志願軍に志願させられ「朝鮮戦争」に参戦する。北部朝鮮の塹壕で米軍に捕らえられ、二度目の∧虜∨となる。ちょうど50年 前、400万人の死者を生け贄に「朝鮮戦争」は休戦。捕虜交換のさい、彼は故郷のある大陸へではなく、位置すら知らない国民党統治下の台湾への帰還を希望 する。大陸に戻れば「労働改造」という名の収容所暮らしが待っているだけだ。台湾では「大陸反攻」の時節を待つ軍隊の底辺部に編入され、やがて退役いまは 福祉施設に暮らす。
 この現在まで、彼(ら)の存在と、<社会的現実=世界>をつないでいたものは、<戦争>のみである。<戦争>だけが彼らの存 在に明瞭な位置を与えてきた。「敵」を待つこと、殺すこと。彼らは塹壕を掘り罠を仕掛けて敵を待つ「蟻地獄」だったが、実のところ、蟻地獄の<罠>には まった「蟻」でもあったのだ。
 軍服をはぎとられ<戦争>を奪われた彼らは、もはや「蟻地獄」でも「蟻」でもない。いや、こういうべきか。彼らは もはや一匹たりとてやってこない蟻を待ち続ける「蟻地獄」であり、蟻地獄のいない穴に落ち込んだままの「蟻」でもある、と。いずれにせよ、彼らは<世界> がシャベルをふるい、とうの昔に忘れさった<戦争>という穴の一つに置き忘れられたのだ。その穴から、彼らは必ず毎日、薄羽蜻蛉のように寺院の境内に参集 してくる。<世界>がその存在を見落とすほどに不明瞭な<しじまの群体(軍隊)>となって。
 おそらく、彼らは私らの詮ない先達であり、「20世紀の父」であった。

私らの阿Qは、この<世界>の中では、どうにも自身を明瞭に感じることができない。だとすれば、<世界>など何の意味もありはしない。むしろ、余分なのは<世界>の方なのだ、と阿Qは考える。
  彼はたしかに<世界>の掘った無数の穴の周縁におろおろと実在しているだけだが、どこかの穴に所属を求める気はない。なぜなら、<世界>は砂漠のようにあ まりに単純で、存在の機微というものがまるでわかっていない、と阿Qは感じるからだ。<世界>が迷路のように見えるのは、「敵」に対してあまりに無造作に 「蟻地獄」が掘られてきたからだけだ。たかだか蟻地獄あるいは「地雷」に存在の機微がわかろうか。阿Qは自身がこのような<地雷原の虜>であるのは承知し ているが、<地雷とともに虜>であることに同意しない。
 阿Qが書き損じたクロニクルは、編年的なものではない。彼は自身がすでに吹き飛ばされた <死体のようなもの>であると感じている。それは彼の過去の姿でもあり彼の未来の形でもある。彼の中ではこの2つの時制は一つであって、それはいわば50 年かけて50年前にたどり着くような<前未来>という時制の言葉で書かれるはずだった。
 この<世界>の中に記されることのなかった阿Qのクロニクルは、予兆と記憶を二つで一つにはらんで、この今、私らとともにある。
 
役者・桜井大造 根岸良一 ばらちづこ 森美音子 遠藤弘貴 つくしのりこ伊井嗣晴 石谷時計 許雅紅(台湾)段惠民(台湾)リュウセイオー龍
舞台監督・村重勇史
舞台美術・長友裕子 中山幸雄 
舞台・小夜子 永田修平
照明・池内文平 青木 舞 
音効・新井輝久
衣装・つくしのりこ 寺田綾子  おかめ みほ 田口ナヲ 中村仁美 榊原南
仮面・小林純子
蜘蛛の巣・花上直人
舞台協力・若狭ひろみ 伊牟田耕児 高山知香枝 アイ しもちゃん め め 大場吉晃 WAKAME 伊藤茂 森温
ヒトガタ幕・黒谷都 松沢香代 加藤知子
中国語翻訳・楊 青芳 洪海 朱さん 小野沢潤
通信・濱村篤
制作・甲斐靖 押切珠喜 國貞陽一 阿久津陽子 板橋祐志 竹本幹 光延晶子 山里順子 山田零 古川壽彦
映像・田中明 木乃久兵衛 
音楽・原田依幸 野戦の月楽団/桜井芳樹 大熊ワタル 小間慶大 川口義之 坂本弘道 関島岳郎 中尾勘二 吉野繁