濱村篤
水平飛行する旅客機がWTC(ワールド・トレード・センター)に激突する映像や、一挙に崩落するWTCの映像が、あたかも神経症患者の心中に去来するトラウマのように、繰り返し流されるとき、あるいは、インド洋上の航空母艦から夜毎戦闘機が発進する映像や、荒涼としたアフガニスタンの山岳地帯にB52戦略爆撃機が雨霰と爆弾を落としている映像を、毎日のようにテレビで見ているとき、映像の持つ規定力の強さに改めて考えが及んでしまった。映像とは、周知のように、時間に鋏を入れて、切り取った部分を再度リアルに再生することができる。しかし、こうして再生されたリアルな映像は、所定の枠組みの中では、すなわち、圧倒的な事実として容認されるような環境の中では、たとえ批判的な意図をもってしても、本来批判の対象となるはずであったこの圧倒的な事実をかえって裏付ける結果に終わるのではないか - こういった杞憂ではない、気鬱というか、憂鬱が、2001年9月11日以降にはことさらあった。
映像が、時間に鋏を入れて、これを再生したり、これを編集したりすることができるのと比べると、優劣の問題としてでなく、ただ単なる比較の問題として、「芝居」は、どうやら、現実に対してさらにプリミティブな形の接地点を持っているようだ。現実に対するこのプリミティブな接地は、役者個人が舞台の上に立ち、観客と対面することで得られる現実感覚にのみよるものではないように思われる。自分がかつて参加していた劇団では、「芝居」が始まる直前には、観客と舞台とを隔てて、「風幕」と呼ばれる一枚の大きな幕が掛けられていた。このぺらぺらの一枚の風幕には、「芝居」が始まる直前には、ダムにおける水位の落差のように既に大きなポテンシャルとしてのエネルギーがはらまれていた。この薄い一枚のぺらぺらの風幕がはたき落とされると、落差となっていたエネルギーが一挙に放出され、「芝居」が始まるのであるが、これと同時に現実のものとは違うある種の「時間」が流れ始める。「時間が走り始めた」と - かつて「芝居」の舞台の上に立っていた頃そのように感じられた。一度走り始めた時間は、自分が舞台の上に立っていようが立っていまいが、そんなこととはお構いなしに、「芝居」が終結するまで走り続ける。この時間はもちろん、役者が、(そして観客もまた)厚みを加えてゆくわけだから、自分が中途に舞台に出たときには、それまでに加えられてきた時間の厚みに押し出されることになる。あるいは、逆に、そうやってせっかく厚みが加えられてきた時間も、思い入れたっぷりのひとりよがりの冗漫な台詞回しや、ちょっとした不注意で水泡に帰してしまうという失態を、これまでに何度も見てきているし、自分もやらかしてきた。だから、いったん「時間が走り始める」と、そのとき自分が何をしているに関わらず、この走り始めた時間に研ぎ澄ませた全神経と全感覚を集中させなくてはならなかった。舞台の上に立つことのない今ではあるが、現実に接地点を持ちながら、現実そのもののものではない、「芝居」が始まると「芝居」が終わるまで走り続けるあの時間が持つ妙にリアルな感触というものが体の中に記憶として今でも残っている。
今書いた「芝居」が固有に持つリアルに感じられる時間というのは、冒頭に書いたような眼前に生じる圧倒的な事実を圧倒的な事実として容認する以外術の無い所定の枠組みから外れているところ、リアルな眼前の現実に接地しているのに、時に荒唐無稽に見えることもあるフィクショナルな部分に根ざしているものだと思う。それと同時に舞台に対する考え方は様々であるが、舞台は時にきちんと抽象化されるべきであろう。たとえば、舞台で「海」を呼称するのに、舞台に途轍もなくでかいプールを造り、そこに大量の水を注ぎ込むことが時にこけおどしに過ぎないこともあるだろう。かつて、自分も参加していた「芝居」の中で、トンネルを潜り抜けるとたどり着けるだろう海の話がさまざまに展開された後で、最後に、ひとりの役者が誰にともなく「なあ、もうみんな帰ろうや」と呼びながら、水が詰まったビニール袋を抱きしめ、これが破れ、白濁した水がこぼれ出るという少し切ないシーンがあったが、このこぼれ出る水が海に見えるのなら、これが海なのである。だから、9・11とこれ以降の圧倒的な事実という所定の枠組みの中で、「芝居」すらもが「芝居」の中で、役者にあれを見よと言わしめ、指差す方を見るならば、明らかにWTCを模したものがあると、「芝居」の意図を批判するつもりはないが、砂を噛むような気持ちが、気鬱というか憂鬱がさらに深まるのであった。「芝居」すらもが、リアルなことをリアルに再現するのであれば...と。
こうした時期、2002年5月末に台湾を訪問する機会を得た。自分にとっては三度目の台湾訪問である。今回の台湾訪問の第一の目的は、ここ数年来野戦の月と親交のある差事劇団による「芝居」を観ることにあった。数年前、差事劇団のメンバーは、軽量の三角形の木枠を組み合わせて、比較的容易に立ち上げることのできる、遠藤弘貴設計の円形ドーム型テントと、そこで演じられる「芝居」に台北で出くわしている。「芝居」の要である言葉も違えば、背景となる文化も違えば、所作も違う、さらに拠って立つ根拠にもやはり違いが認められる日本側のスタッフと台湾側のスタッフとの落差の多い、数年間にわたる交流を経て、今回の芝居では、差事劇団のメンバーが円形ドーム型テントを含めてすべてを独力で作り上げていた。この点には感銘を受けた。がそれよりもむしろ、時節柄現実にあまりに規定されることの多い言説や表現にげんなりしていた自分には、台北の華山藝文特区というところでおこなわれた差事劇団の『霧中迷宮(Labyrinth in the Mist)』という芝居の内容が意外にも新鮮であった。意外にもというのは、「芝居」のタイトルからして、また、幻とか記憶とかの曖昧な話になるのだろうなと思っていたからである。そして、果たしてその通りではあったのだが。
台湾で観る芝居とは奇妙なものだ。観客はそのほとんどが台湾人であるからして、中国語で上演され、日本語の字幕などもちろん出てこない。上演に先立って、日本人と台湾人との唯一のコミュニケーションの手段である英語(!)でそのあらましを聞いているだけである。中国語の素養の無い自分からしてみると、「芝居」上演中の言葉はさっぱり分からない。情けない限りである。日本語にまみれた日本の中にいて、たとえば、「芝居と舞踏との違いは、芝居に言葉があるからだ」と、うそぶいてみたところで、その肝心要の言葉が分からない。にもかかわらず、「芝居」を観ている間は、役者の所作のみならず、そのさっぱり分からない言葉に最大限の注意を差し向けながら、文字通り目を皿のようにして見続ける。すると、その理由はよくは分からないが、微細なニュアンスがそれなりに伝わってきて、その微細なニュアンスが積み重なると、それなりに全体的に把握しているようである。それが証拠に、芝居がはけた後で、台湾人の役者やスタッフと毎度あれこれ英語で熱心に論じ合っている事実からして、「芝居」を媒介にしてコミュニケーションが図られているようだ。
差事劇団が『霧中迷宮』という芝居をおこなった華山藝文特区というのは、台湾国鉄の台北駅の近くにあるから、台北市の中心街のただ中にあるのだが、円形ドーム型テントが設営されている場所は、かつての酒造所裏の周囲に雑草が生茂っている打ち捨てられた場所だ。テント前にあるこのような打ち捨てられたような場所で、松明を手にした役者による演技がひとしきりおこなわれた後で、楽隊に誘われながら観客がテントの中に入ってゆき、こうして「芝居」の時間が走り始めた。ところがその「芝居」というのが、不眠の男の脳裏に焼きついたままの妄想とも現実ともつかない話なのだ。結果として現実を裏付けることになる表現に食傷していた自分にとっては、ひざをかくんとやられた気がした。
「芝居」が取り扱っているテーマは、以前戒厳令下にあった、かつての「反共国家」台湾にあって、劇作台本の内容ゆえに当時の国民党政権によって処刑された劇作家の話のようである。戒厳令下と言いながら、ひとびとの送る日常生活は何ひとつ変わることはなかったと言う。通りを行き交う人々の雑踏と、立ち並ぶ色鮮やかな看板と、好香を漂わせる屋台などまったくの普段通りであった。ただ表面では見えない何かの位相がずれている。ただ所定の「表現行為」が許されていない「だけ」なのであった。処刑されたこの劇作家は、『霧中迷宮』の作と演出を手がけている差事劇団の鍾喬(チョンチアオ)が直接知っていた人のようであり、鍾喬の話から察するに、鍾喬自身が非常に敬意を抱いていたようである。劇作家のマニュスクリプトはちりじりになり、かつてあったかもしれない「芝居」など、当然実現される術もない。その「芝居」についての「芝居」なわけだから、虚構の虚構というわけだ。
記憶。そして、インソムニア、不眠。眠れない夜。眠ることのできない夜。夜になると脂汗とともにマニュスクリプトが、その文字がじりじりと蘇る。たとえば、女優の雅紅(ヤホン)。雅紅が、上手にある自分が幽閉されている搭(幽閉されているというのは現実か)の窓から、突然、捕らわれの格子を取り外し、外を覗き見る。顔には、ラフカディオ・ハーンの耳なし芳一の顔のように、呪文のごとくに文字がびっしりと書き込まれている。その雅紅が、搭の外に転がり出てくる(転がり出てくるというのも現実か))。
たとえば、女優の李薇(リーウェイ)。舞台の中央奥から、作り物の大きな外洋船が、プールに張った水の上をやってくる。船首には、李薇がすっくと立っている。その姿は、明らかに、メキシコのシュールレアリストの女流画家フリーダ・カーロの、フリーダ・カーロ自身による自画像を模したものになっている。言葉が分からないため推測する以外に方法がないのだが、彼女は、恐らく、かつて書かれていたはずの、演じられることのなかった作劇上の登場人物なのだろう。でも彼女は、「幻」の中にいるはずなのに、実在する人物のように「外」からやってくるフリーダ・カーロだ、自らの傷だらけの身体を開示して憚らず、それでも正面を直視するフリーダ・カーロだ。この、現実のものか、夢のものか判然としない領域のフリーダ・カーロが、観客である私たちにスペイン語で、こう呼びかける:「コンパニェーロ!(仲間たちよ!)」と。
この「芝居」のエンディングでは、この「幻」の劇場は、炎に包まれて灰燼に帰してしまうことになる。舞台に設営されていたすべての大道具が撤去され、テントの外にある、背景となる荒涼とした草叢のあちこちに炎が立っていることが、このことを物語っている。これは、幻だったものが、やはり何もない現実に戻るのに、この種の仮設構造物による「芝居」が使う常套手段と言えば、常套手段と言えよう。差事劇団を主宰している鍾喬は、劇作家という以前に、台湾では既に名をなしている詩人である。言葉のできるこうした人に時に見られることだが、言葉が持つ規定性ゆえに、実際の舞台が削がれることがある。こうした人が演劇の世界に参入するときに、時に「弱さ」として映ることもある、ある種の「優柔不断さ」が、今回の作劇が持つ、現実と幻とが交わる淡い領域の中で上手く機能したのではないか。このような淡い領域の中で、今回、「芝居」ならではの身体表現が持つ、そこに折りたたまれてあるポテンシャルが展開され開示されるのではないだろうか。言葉の分からない世界に一観客として暗い客席の中に佇み、ただただ言葉に耳を傾け、役者の身体を注視しながら、このような感想が持たれた。
台湾の訪問は、このように、たいていは「芝居」を堪能することに時間が費やされる。が、今回は、野戦の月の桜井大造が是非見せたいレリーフがあるというので、台北から南の山中に自動車で一時間くらい走ったところにある、平渓線というローカル線の終着駅である菁桐(チントン)という所にまで足を伸ばした。台湾はどこも山が深い。台北の南に位置する菁桐もその例外でなく、蘇鉄のような植物が自生する亜熱帯の山深い谷間にちょろちょろした川が流れているところである。北部台湾は、日本が台湾を統治する以前から、その炭鉱によって知られており、当時既に列強の垂涎の的であった。明治41年に開通した台湾の南北縦貫鉄道が、台湾における急速な近代化と、日本による植民地経営の成功(成功とは、日本による植民地経営が赤字から黒字に転じたということ)に大きく貢献したことは、周知のことであるが、南北縦貫鉄道に続いて、北部炭田開発のために敷設され、大正10年に開通したのが、平渓線である。一見したところ何もないように見える菁桐から石炭が出たらしく、日本統治時代には、三井資本が炭鉱を経営し、台湾北端にある基隆港から日本に向けて石炭を積み出すのに、このように山深いところにまで線路を引張ったようである。だから、駅の線路の脇には、石炭を直接積み込むことができるようになっていた往時のホッパーが今でもそのまま残っている。
かつて、ゴム栽培で当てて、南米の熱帯のアマゾン川流域のただ中に大都市が忽然と姿を現したというような大規模なスケールではない。規模はそれなりに、ちんけではあるのだが、「忽然と」という感じが当てはまる。また、この「ちんけな」という感じがなんとも「忽然と」という感じにマッチしているのである。川は、鉄道が敷設されているレベルよりもかなり深いところを流れているのだが、鉄道のある側の川岸には天皇寮と呼ばれていた、会社の幹部が宿泊していた宿舎。橋でつながれている、鉄道のある側から見て川向うには、背の低い平屋の炭住が並んでいる。日本にあった炭住のように、木造ではなく、植民地風の煉瓦造りとなっている。そして、駅の裏山が炭鉱の跡になっている。コンクリートで塞がれた斜坑の入口、選炭場、倉庫などからなっている。そのどれもが、長い年月にわたる風雨のせいであろう、鉄の部分が錆びて、木の部分が朽ちて、石の部分のみが残っている。中でも、屋根がすっぽりと無くなり、四周が比較的大きな壁でおおわれている、倉庫であったと思われるところの中は、桜井大造が「レリーフ」と紹介しただけあって、芸術作品のような素敵なたたずまいを示していた。廃墟となって残っている壁のところどころに、壁に密着して生長しながら、その壁をさらに超えて、亜熱帯の背の高い樹木がすっと伸びているのだが、これらの樹木から、まるで茎のような無数の堅い根が壁の上を一直線にどこまでも放射状に伸びていて、根と根とが重なり合うところは溶け合ってひとつとなり、それらが、廃墟となった壁面全体で見事な抽象的な絵柄を繰り広げている。その様は、ジャクソン・ポロック顔負けの、自然と廃墟とが、有機物と無機物とが織りなす一大アクションペインティングであった。
帰路、炭住を川をはさんで望める台湾の屋台で、昼食を取る道路工夫や地元の子供らに混じって、かき氷を食べた。頭上には燦々と照りつける初夏の太陽。周りには亜熱帯の植生でいっぱいの緑の山々。そして、かつて忽然と生まれた集落。その時、川下から川上に向けて南の国の風が巻き上げるようにして吹いていた。
* * *
-風。ふいに在日の詩人金時鐘の詩句が思い起こされた。
「風は はてしない喪の祭司である。
季節を喚び起こす風が風のなかを巻くので
吹かれているのがいつの季節かを 人は知らない。」
この詩句を含む「風」と題されている詩から始まるのは、金時鐘の詩集『光州詩片』である。表題が示唆しているように、この詩集が一義的に取り扱っているのは、1980年5月に発生したいわゆる「光州事態」である。「光州事態」というのは、前年の1979年10月に「維新体制」を維持し続けてきた朴正煕大統領が彼の腹心に射殺されて以降、流動化を続ける韓国にあって、全羅南道の都市光州が市民と学生によって解放されるという状況に対して、戒厳軍が光州市を制圧、その際に多数の市民や学生が殺害された事態のことであった。戦後東アジアの体制の基本的な枠組みを覆しかねないこの事態に、当然のことながら、海峡を隔てて日本で暮らす韓国・朝鮮人のコミュニティーは騒然となった。白竜や洪栄雄といった在日のミュージシャンたちが、学園や公民館やホールを巡っていたことが、個人的には今でも記憶に残っている。金時鐘の『光州詩片』が出版されたのは、「光州事態」が発生してから3年が経過した1983年のことであった。この詩集の中でも比較的よく知られている詩「褪せる時のなか」は、次のような書き出しで始まっている。
「そこにはいつも私がいないのである。
おっても差しつかえないほどに
ぐるりは私をくるんで平静である。
ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。」
詩集『光州詩片』が出版された当時、たとえば、こういう詩句を読むと、「光州事態」と、これを日本で見守るしかない在日朝鮮人の私という簡略化された構図で捉えていたようである。ところが、2001年に出版された金石範と金時鐘との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社)の中で、金時鐘が20歳になるかならないかの頃に済州島で「山部隊」の側のレポを務めていたこと、そこでさまざまな文字通り惨劇を多数目撃してきたこと、彼の父母が彼だけは助かるように日本に密航するよう送り出したこと、その父母が済州島で間もなく亡くなったこと、これらのことを金時鐘が長い間沈黙してきたことなどが、とつとつと語られている。「四・三事件」とは、ここで十分に論じることはできないが、第二次世界大戦後間もない1948年の4月3日に、当時米軍政が進めていた南朝鮮単独選挙に反対して、済州島で、武装した約500名が、島内の警察署や右翼要人宅を襲撃した事件であった。これ自体を取り出してみれば、小規模な反乱であったが、これを契機にしてその後、正確な数字は把握されていないものの、数万人の島民が島内で殺されたと言われている。先ほどから述べている「光州事態」が、戦後東アジアの体制の基本的な枠組みを揺るがしかねない事態であったとするならば、「四・三事件」は、この枠組みが出来上がるまさに出発点に位置付けることのできる事件である。金時鐘にとっての「時間」は、既にこの時点から走り始めている。別の言い方をするならば、金時鐘が『光州詩片』の詩作の中で語っている「風」は、既にこの時点から吹きつのっているのであった。
「遠く地平をふるわせて
非業の時をなぞっているのも
その風である。」
つまりは、風は、またもうひとつの風を巻き起こす風なのであった。「光州事態」を目前にして、というか、「光州事態」に仮託させてようやく自分じしんを見つめなおすことで、初めて、金時鐘にとっての「四・三事件」が把握され、東アジアの戦後の歴史を表現の高みにまで高めることができたのだと言えよう。いや逆に、金時鐘の表現の高みが無ければ、戦後の東アジアの基本的な枠組みが見えてこなかったと言えるかもしれない。詩作に際しては、具体的には「芝居」とは方法が異なるものの、ものごとを眼前にありありと把握できるようにするためには、やはり「芝居」と同様に、抽象度の高さというものが要求されるものなのであろう。
その金時鐘が好んで使う言葉に「唖蝉」という言葉がある。金時鐘の代表作とも言える『長編詩集 新潟』の中でも使われているこの「唖蝉」という言葉は、もの言わぬ蝉という意味であろうが、金時鐘の若い頃の詩作「遠い日」の中で、金時鐘にとってこの言葉が何を意味しているのかについて分かりやすく示唆されている。
「遠い日
いつの日のことだつたか。
私が蝉の命のみじかさにおどろいたのは。
ひと夏のつもりでいたのが 三日生命と知らされて
木の根つこの蝉のぬけがらを 葬つて歩いたことがある。
遠い以前の その前の日のことだ。
それから どれくらい時日が経つたろう。
暑いさかりに 蝉が声を張り上げて鳴いている様を
私は 心して 聞くようになつていた。
限られたこの世に 声すらたてないものの居ることが
気がかりでならなかった。
私は まだ 二六年を生きぬいたばかりだ。
その私が 唖蝉のいかりを知るまでに
百年もかかつたような気がする。
これからさき 何年が経てば
私はこの気もちを みなに知らせることができるだろう。」
-「蟻にたかられて 唖蝉がおり」、短い夏をすら声をたてることなく地面に転がって死んでいる蝉と、これにたかる蟻、目蓋を閉じると、金時鐘のこの言葉が、平渓線の終着駅菁桐で見た炭鉱跡の廃墟と、そこに巻き上げるようにして吹きつのる南国の風と、ぴったりと重なり合う。
* * *
リアルなことをリアルに再現することが圧倒的な事実を裏付けることになりはしないかという懸念を開題に文章を始めてみて、「芝居」の中を走る「芝居」固有な時間、国境を超えた、言葉の通じない台北で観た差事劇団の「芝居」『霧中迷宮』、台湾平渓線終着駅菁桐にある炭鉱跡とそこを吹く逆巻く風、金時鐘の沈黙と書いてきたが、これらの中には、想像力の欠如したリアリズムに対置することのできる、「芝居」が現実と接地しながらも固有に持つフィクションへの萌芽を認めることができると考えている。
「破壊的性格は、何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれには、いたるところに道が見える。ほかのひとびとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、いたるところで道の邪魔物を片づけねばならぬ、ということにもなる。といっても、粗暴な力を振るうとは限らず、ときには洗練された力を用いる。また、いたるところに道が見えるので、かれ自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものをかれは瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫のなかを縫う道なのだ。」
これは、引用されることの多いヴァルター・ベンヤミン(野村修訳)の小品『破壊的性格』からのものであるが、「芝居者」であるならば、ベンヤミンの言う破壊的性格の一端を抱きながら、「芝居」固有な方法でもって、錐揉状に降下しながら、あるいは、転げ回りながら、繰り返し繰り返し現実への接地を試みるであろうし、そうするに違いない-と思っている。
(文中の引用は、金時鐘『集成詩集 原野の詩』1991年 立風書房;ヴァルター・ベンヤミン著・野村修編訳『暴力批判論 他十編』1994年 岩波書店からのものである。なお文中の敬称は省略してあります。)
(寄せ場学会会員)