百B円 神聖喜劇

演員:濱村篤 ばらちづこ 渡辺薫 森美音子 阿花女 武内理恵 ロビン リュウセイオー龍 春山恵美 みりん 申源 押切マヲ 桜井大造

「百B円 神聖喜劇」について――
桜井大造

 百円ショップに並んでいる品物の多くは舶来品である。はろばろと水を渡ってこのクニの都会に漂着したものだ。多くの品物は目新しく、購買者たちに<暮しの夢>や<生活の理想>を再帰させるように工夫がなされている。購買者はこのワンダーランドで値踏みを続けるが、やがてどれもが凡庸な物体に見えてくる。
 だが凡庸さは品物のせいだけではない。再帰する夢や理想もまた凡庸なのである。そしてそれにも増して「百円」が完膚なきまでの凡庸さを品物と購買者に媒介する。「百円」という閾値(いきち)が刺激でもあり限界をも設定しているのだ。
 これは都会における「時給八百円」(九百円でも千円でもいい)が、生産物と労働力を媒介する際の凡庸さと同様であろう。「労働」が凡庸なのではない。「時給八百円の労働力」という閾値から労働主体が逃れられないことが凡庸なのである。
 このクニの百円ショップの舶来品の多くは、中国の浙江省義烏(イーウー)市の卸市場から運ばれてくる。百六十万種の品物が市場を埋め尽くしているという。単価はおおむね1人民元(16円)以下である。このクニに並んでいる品数は大店でも6万種ほどだというから、烏市場の品物のほんの一部である。現在、多くはインドネシア、インド、アフリカのバイヤーが買い付けているらしい。汎世界的消費社会の到来だが、これに費やす原材料とエネルギー、労働力はいかほどだろうか。(ちなみに、賃金上昇が甚だしいと日系企業などが危惧する中国の労働者最低賃金は、現在時給にして「百円」程度だと推定される)そして使用済あるいは未使用のこれらを廃棄するために要するエネルギーはどれほど だろう。

 このテント芝居では、百と円の間に「B」を挿入してみた。「B円」といえば、米軍占領下の沖縄における米軍の軍票であり10年以上にわたって沖縄の唯一の正式通貨であった。軍票は軍が物資や土地を調達するためのただの紙片である。沖縄人は戦後7回の通貨切替えに翻弄され恒常的な生活苦を体験してきた。しかし、このテント芝居で挿入された「B」は沖縄の「B円」のことではない。いわんや新自由主義経済の権化のようなビットコインのことでもない。バリケードのB、バスタード(運の悪いやつ)のB、凡庸のBだ。凡庸の権化のような「百円」の間に私らの「複数のB」を捩じ込むことで通貨は軋み、百円の閾値は震えるだろうか。
 このクニに漂着した百円小品は、百円の閾値――その孤島に在住する私らの姿でもあるか。大都会を埋め尽くすそれぞれの「百円孤島」はすでに限界集落の限界を超えて消滅に向かいつつあるのかもしれないが、ただ孤島苦から逃れ移住すればよいわけでもないだろう。外は専制君主のような「情報の海」だ。情報弱者にも総動員令はかけられている。すぐさま藻屑となるかもしれない。
 ダンテの「神聖喜劇」(神曲)は地獄と煉獄、天国を巡る物語だ。ダンテにかかれば私らの大切な死者などはすべて地獄苦の住人となる。よし、百B円なる紙片を手にして、我らが死者のデイアスポラの土地を訪ねてみよう――「地獄の沙汰も金次第」というではないか。