世界か--このあまりにも愚劣なもの。そして私の似姿。
いや、私そのものである世界。おまえには、小さなふるえだけとなった私のコエが聞こえるか。
今夜のようにまっ暗な夜には、何か語っておかなくてはならない。
積もり疼く悲しみと、拳をふるわす、君の怒りのために。
溜まって行き先のないやり切れなさと、胸にはじける、君の、愛のために。
今夜のようにまっ暗な夜には、何か記憶しておかなければならない。
とても、まっすぐには見られず、上目づかいに盗み見るしかなかった、私の目の中の、君のために。……
とうとうやりすごしちまったな。--おそらく誰かが、最後のコトバを聞きのがしたのだ。……
そして私の似姿である世界は、きのう枯葉の中で白い影を拾った。
--「さよなら」は言うまい。同じコトバが返ってくるだけだから。
--だから、ドリー。君にお別れのキッスだ。
1999年1月 世界根岸劇場『ドリーにキッス』(作・演出:池内文平)上演台本より。
ねぎやんの芝居人生のうち、おそらく最上級に入るであろうこの独白ののち、終景、舞台奥のスクリーンが
割れ、コートの人形(ヒトガタ)が浮かぶ。その人形に写る映像。ワン(ねぎやん)は、少し佇み、映像の中に
入ってゆく。
そしてこの春、ねぎやんはそのように、姿を消した。
私たちは突然の不在に涙し、分かち合いたかった多くの時間を思い、唇をかんだ。
いや過去形ではない。今もって、その不在を埋める術を私たちは持たない。
……だから、私たちも「さよなら」は言うまい。
ねぎやんも、同じコトバを返してはこないだろうから。
根岸良一/劇的! クロニクル
1955 5月29日(日曜) 横浜市都筑区佐江戸町で出生
1971 県立川和高校に入学
○いかに根岸良一とはいえ、いきなり高校に入学したわけではなく、適齢期には都田小・都田中に学んだ。中学時代は教員や同級生らと野球に興じていたが、高校時代はとくにクラブ活動はせず、もっぱら「帰宅部」。部屋には森下愛子のポスターが貼ってあった。
1975 武蔵大学経済学部に入学
1976 <演劇研究部>に入部
○大学入学後1カ年を経て、どんな訳あってか芝居の道に踏み込む。1週間おそく入部してきた女子学生にしばらくのあいだ顧問の先生だと思われていた。
夏 <劇研>『覚酔夢』役名<支配人>
1977 春 <劇研>『アプテリックスの翼』役名<A>
夏 <劇研>『困ったあやとり』(裏方)
秋 <劇研>『浮世風呂鼠小僧次郎吉』(演出)
1978 6月 <劇研>『マニフェスト・2』役名<紳士/男A>
○当時の公演用パンフレットの役者紹介には「マスクはオジサンだが、心は少年だ。Gパンを購いに行って、「おたくの歳ならば…」と言われ、「はぁ…」。結 局、ダブダブのを購ってきたとか。顔を真っ赤にした熱演、とくと御覧あれ。別に、ぶっ倒れたりはしません。弱冠23才。早朝には野良仕事、いたって健 康。」と書かれている。
11月 <劇研>『袋小路黒髪奇譚』(舞台監督)
1983 5月 6月/10月11月 <第七病棟>『おとことおんなの午后』役名<精神病院の職員>
○ちょうど町屋に引っ越したころ。何かの拍子で近くに稽古場を構えていた七病を手伝ったらしい。当時、彼が唯一評価していた女優・緑魔子と共演。
1984 4月 <風の旅団>へ参加
○4月上旬、当時旅団の稽古場があった江戸川区篠崎の鉄工場の事務所に彼は登場した。学生劇団の先輩池内文平の甘言(必ず結婚相手に巡り会える)にまんま と乗せられてやって来たのだ。その穏和な佇まいは、旅団メンバーをして、となりの油脂工場の熟練工の先輩がわけあって訪ねてきたのだと勘違いさせた。全員 正座。当時27歳、すでに熟年の域にあったのである。
4月 6月 <風の旅団>テント『クリスタルナハト』役名<お釜の三銃士・ササヤン>
浜松・広島・大阪・関西学院大・京都・岡崎・名古屋・東京東中野・仙台
○テント芝居への初出場はとても出番が多かった。ササヤンは入国管理官であり蛇の目ミシンのセールスマンであり、ファシスト(やくざ)組織の下部構成員、つまり悪役だった。
1984 9月中旬 <マダンの宴>『東海道四谷怪談』役名<地獄宿の客> 東京北方舞踏派倉庫劇場
○共演者は発見の会の名花・輿石悦子。地獄宿の女郎に邪険にされて口惜しがる際の独特の所作は、その後20余年磨きがかかって独自の芸風となる。
10月12月 <風の旅団>テント『復員の海図(マロウドたちのチャート)』
役名<遺骨収集団団長・野田平治郎>
仙台・岡崎・名古屋・京都・広島・和光大学・横浜寿町・東京八幡山(慶応大・法政大)
○慶応大、法政大の公演が不能となり、特に法政大では警察との相当な応酬があった。すでに山谷の支援を経験していた彼も、トラック運転手として矢面に立つ ことが多く、とても緊張していた。諍いや暴力がとても苦手な彼は、しかし弱音を吐くことも愚痴をこぼすこともなくじっとその暴力的な状況に耐えていた。
12月 <風の旅団有志>野外『旅団版・東海道四谷怪談』役名<宅悦> 東京山谷
○越冬闘争での出し物。女優の衣装の裾がめくれたといって、対抗政治党派の機関紙で批判され、大笑いした。
1985 8月<風の旅団>野外『かぐや姫七変化』役名<やんから5人衆> 大阪釜ヶ崎・東京山谷
○釜ヶ崎三角公園では数千人の観客を前に演じた。それまでの小劇場センスから解放された瞬間であった。9月11月<風の旅団>テント『王國と覇族(ジプ シー)』役名<葦原シコオ・将軍>横浜寿町・東京八幡山・掛川・京都・広島・小倉・大牟田・熊本・博多・同志社大・名古屋・岡崎・東京法政大(対馬・水 俣)
○九州地区の先乗り制作担当だった。旅団としては初の九州公演だったが、各地で多くの頼もしい共同者を得て盛況を極めた。彼らによれば「ネギやんを見ているといじらしくて、なんとかしてやらなくては!という気持ちになるのだ」とのこと。
1986 10月 <風の旅団>テント『火の鳥』役名<オペラの怪人・根岸兄弟>
東京八幡山・京都・広島・法政大学
○一人二役。山谷争議団のやんから部隊に主演男優賞をもらった特筆すべき熱演、怪演だった。
12月31日 <風の旅団・夢一簇・発見の会他合同公演>野外『天竺徳兵衛山谷散乱』
役名<オールドブラックジョー> 東京山谷
○大晦日の玉姫公園、氷点下のなか焚き火に寄り添う労働者の群れの中から立ち上がり、ぼそぼそと詩を語り出す。黒人霊歌「オールドブラックジョー」の演奏の中、煤で真っ黒くなった顔からは鼻水が垂れていた。
1987 夏 <山谷制作上映委>映画『山谷─やられたらやりかえせ』全国キャラバンに加担
○主に東北地方を回ったが、移動途中、河原に温泉が湧いているのを発見。クルマを停めて確認にいったがツルンと滑ってドボン。頭をかきかき起き上がり「へへへ、いい湯加減ですよ」って。
9月12月 <風の旅団>テント『モダンタイムス第一部・黒い九月/第二部・輝ける道』
役名<公爵・ムィシュキン北原> 宇都宮・千葉松戸・京都・善通寺・松山・筑豊・博多・広島・笠岡・
京都同志社大・金沢・高岡・名古屋・横浜寿町・東京八幡山
○役者17人、上演時間3時間半余りの芝居。彼は出番、科白共にかなり多めだったため、彼に唯一要求された演技術は、速射砲のごとき科白回しだった。この芝居で彼は<速度>を、科白の意味と芝居の無意味から逃走する<速度>を獲得した。
1988 4月 <風の旅団>野外・反天連集会パフォーマンス『火山灰地』参加
東京池袋豊島公会堂前公園
○当局の介入により、公園から路上のトラックへ、トラックから歩道へと移動した芝居もどきのひとさかり。最終シーンは観客と機動隊とがもみ合う中での春駒踊り。
10月11月 <風の旅団>テント『黒くぬれ!』役名<六本木裕次郎>・
『武装天使打鈴』役名<呂ジン> 栃木佐野・京都・江ノ島・東京法政大・筑波・東京大
○各地、日替わりで二本の芝居を上演。旅の途次、高速道路のサービスエリアに彼が置き忘れられたのはこの旅だったか。集団への疑念深まる?
1989 1月 <風の旅団>野外・天皇裕仁病死緊急公演『我が哀しみのヤポネシア』参加 京都西部講堂前
○裕仁天皇病死の報直後に、旅団全員で京都に出発。かねてから準備していた西部講堂連絡協議会の歌舞音曲大会へ参加。深夜の高速を飛ばしたのはもちろん彼だった。
8月11月 <風の旅団>テント『飢餓陣営(ハンガー・コネクション)』役名<異邦人・眠りの清志郎>
新潟・帯広・釧路・札幌・秋田・六ケ所村・仙台・高岡・笠岡・京都・広島・博多・東京八幡山(東京大)
○長い旅の最後、東京大学では機動隊に囲まれ籠城状態となる。彼の口癖「どうなんですかねえ」の回数増える。
1990 10月1月 <風の旅団>テント『ウルファウスト』役名<唯野這仁・演劇課教授>
江ノ島・松本・名古屋・京都・同志社大田辺・東京八幡山
○風の旅団に主役も脇役もなかったが、この芝居に限ってはまさしく主役のファウスト博士役であった。
1991 9月11月 <風の旅団>テント『道化たちのダイイン』役名<山猫・トーマス>
松本・笠岡・広島・博多・佐賀・熊本・京都・東京八幡山
○国鉄労組員の機関士役。彼の指差確認はかなりきまっていて、観客は彼を本物の国鉄職員だと思った。
1992 12月 <世界根岸劇場>旗揚げ『9極の神々』役名<ガブリエル商会会頭> 東京国立
○「世界根岸劇場」は彼を主宰として、旅団の寺川努、ベーシストの西村卓也の3人で結成された。女性との個的親密なつきあいが将来にわたり絶望的であろうと思われる単身中年男性だけの集団、というのがこの集まりの詮無いコンセプトで、寺川台本で旗揚げした。
1994 4月 <野戦の月>旗揚げに参加
○<野戦の月>は風の旅団解散後に旗揚げとなるが、当初は桜井大造のプロデュース公演という形式であった。彼をはじめとする元旅団のメンバーに加え、舞台 監督となる村重勇史、美術家のクロマルトン、舞踏家の岩名雅記、故え~りじゅん、スリランカからの亡命者ニーサなどが参加。
8月 <野戦の月>テント『幻灯島、西へ』役名<幻灯作家・蛇頭> 東京立川・東京南千住
○雷鳴止まぬ南千住の本番中、彼はトラックの中にこもったままで出てこず、芝居の成立が危ぶまれた。彼は本当に雷様を恐れていた。
1995 7月/10月 <野戦の月>テント『阿Qの陣』役名<ドンH氏> 東京中野・小倉・広島
○中国人マフィアのボスの役。悲劇的な喜劇役者、根岸良一の真骨頂であった。
1996 5月 <世界根岸劇場>『駅伝どうぞう』役名<ネギ田駅伝> 東京中野
○根岸劇場の禁を犯して、旅団・独火星の女優である藤島かずみを招請し共演した。
11月 <野戦の月>テント『インフォーマルセクター・眠りトンネル』役名<土方> 東京南千住
○ロシア帰りの演劇人・土方(与志)という役回りだが、途中から無名の土方に変わる。
1997 6月 第二回飛田演劇賞(関西野外演劇連絡協議会主催)「最優秀豪優賞」受賞
9月10月 <野戦の月>テント『眠りトンネル・酔生夢死編』役名<土方>
小倉・広島・東京南千住
○前年の改訂版というか続編。トンネル工事の飯場での長台詞のシーンは、哀しみを全存在から発する名演だった。
1998 5月 <独火星>テント『メフィー』役名<中佐・茂樹(蛇足)> 東京南千住
○発見の会の謎優・伊郷俊行とコンビを組む。人身密輸組織・蛇頭の下働きをする蛇足の役どころ。ふたりでPUFFYの「愛のしるし」を歌い踊った。
1999 1月 <世界根岸劇場>『ドリーにキッス』役名<ワン> 東京国立
○バーバリー(もどき)コートにソフトで決め、「さよならは言うまい。同じ言葉が返ってくるだけだから。だから、ドリー。君に、お別れのキッスだ…」と決めまくった姿に妙齢のご婦人方はシビレタ。
6月 <野戦の月>テント『エクソダス・出ポン前夜』役名<主> 東京南千住
○モーゼのリヤカーに乗せられて脱出する野垂れ死んだ<主・ヤハウェ>という役柄。おそらく初めて旧約聖書を読む。
8月 <野戦の月・台湾差事劇団合同公演>テント『出核害記』役名<主> 台湾台北
○台湾の女優李薇と共演。まったく言葉が通じない相手につぶらなアイコンタクト中心のコミュニケーション。
10月 <野戦の月>テント『エクソダス・決定版』役名<主> 小倉・広島・東京南千住
2001 12月 <独火星>東京難民戦争外伝・九龍の蛆虫ども/第1部『火の記憶』役名<フジムラ>
東京中野・光座
○「旧石器発掘捏造」の藤村新一とクローン技術最先端が折り重なる、かなりコワイ役に挑戦。長い芝居の終盤で「まだ物語は始ったばかりだ」と言い放ち、客を不安がらせた。
2002 10月 <野戦の月・海筆子>テント『阿Qゲノム』役名<二宮慎太郎・元農業高校校長> 東京小金井
○1分間に最低3つのギャグを放つことを彼は目標にした。閉所恐怖症の気味があった彼なのに、舞台上の金庫の中に長い時間閉じこめられた。禁錮刑に服していた元校長という役柄ゆえだった。新しいファン層を獲得した。
2003 7月<独火星>東京難民戦争外伝・九龍の蛆虫ども/第2部『虚無への供物』役名<フジムラ>
東京中野・光座
○再び「旧石器捏造」の藤村。共演者はウサギ。山場でセリフを2ページくらい飛ばし、芝居をネツゾウしかけた。
10月 <野戦の月・海筆子>テント『罠と虜』役名<子泣き聖者・裏島> 東京小金井
○彼固有のポスト農本主義的ダンディズム(?)が炸裂。この芝居でも言葉の通じない台湾の段恵民、許雅紅との共演場面が多かったが、つぶらなアイコンタクトの方法論から極東アジア的なダンディズムの共有性で、名場面を作った。
2004 8月 <岩名雅記監督作品>映画『朱霊たち』役名<ウエムラ> フランス・ノルマンディー撮影
○2ヶ月近いフランスの農村での撮影期間、チーズとフランスパンの毎日に、夜ごと牛丼と醤油の夢を見たという。大詰めに登場する馬丁役の彼は、岩名監督の期待以上に、この映画を見事にこの現世に着地させている。
11月 <野戦の月・海筆子>野外『最上の夜』後見人 山形最上町
12月 <高嶋政伸リーディングセッション>『ハート・オブ・ワイルダーネス』役名<木こりの兄者>
東京北千住○芸能人に囲まれての朗読劇。最後の会の終了後、打上げパーティに向かう芸能人を尻目に赤帽の配達に
消えた。
2005 5月 <マダンの光05>野外『新しい天使』後見人 韓国光州
2006 6月<野戦之月海筆子>テント『野草天堂・海峡と毒薬』役名<野草天堂の主・慕侮(ボブ)>
東京八幡山
○日中戦争期のアヘン王、里見の役。自らが個人経営する赤帽の車に乗って舞台に突入。東洋のマタハリ・川島芳子の遺体を片づけて颯爽と退場。
2007 4月/7月/9月 <野戦之月海筆子>テント『変幻痂殻城』後見人
台北同安街・東京八幡山・北京朝陽区五輪広場・北京皮村
○5月上旬までは<天鼠>という脳医学者の役作りに腐心していたが、中旬にガンの病巣が発見され間もなく手術。7月の東京公演で、旅団以来自らが参加して いるテント芝居を初めて見る。「こんな面白いことやってたの?!」が感想。9月の北京公演のときは、北京行きを断念し、空港まで芝居の荷物を赤帽で運んで 見送った。
11月 <広島アビエルト企画>映画『朱霊たち』上映会講師 広島
○身体もすっかり元気となり、1週間におよぶ広島滞在は、ご馳走と広島の友人たちに囲まれご機嫌の毎日だった。